「大食い魔女」としてご活躍だった菅原初代さんが、2023年3月9日大腸がんのためお亡くなりになっていたことが公表されました。
SNSを中心に深い悲しみの声が広がっています。享年59歳。
菅原初代さんの若い頃の画像や、菅原さんの半生を調べてみました。
【画像】菅原初代の若い頃
1963年11月14日に 岩手県水沢市(現・奥州市)に生まれた菅原初代さん。
画像とともに幼いころから見ていきたいと思います。
幼少期
3つ下に弟(及川喜之)さんがいらっしゃいます。
周囲は農家ばかりでしたが、菅原さんのご実家は2代続いて婿養子。祖父は板金工、お父さまは大工として働かれていたとのこと。
祖父母と両親、3歳下の弟の6人家族で育った菅原さん。
菅原家には、なぜか家にはご飯茶碗がなかったそうで、ご家族は皆さんどんぶりでご飯を食べていたとのこと。
朝は具だくさんのみそ汁と漬物が定番。みそ汁にはだしを取った煮干しが丸ごと入っていた。煮干しも具のひとつだと思い、好きだったという菅原さん。みんなの分までもらって食べていた。
「出されたものを食え」
「余計なことは言うな」
両親から厳しく言われたのはこのふたつだ。
だからか、友人たちが「あれが食べたい、これは好き、これは嫌い」と話しているのを聞くと、何をわがまま言っているのと感じた。
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「どんぶりでご飯を食べていた」こと、ご両親から「出されたものを食え」と言われ育ったことが、大食いの原点だったのかもしれませんね。
菅原さんご自身も、このように仰っています。
「大会でいっぱい食べられたのは、親の厳しい教育のおかげですね。何を食べても、“わー、美味しい”と感じられたので(笑)」
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学生時代
勉強では暗記が苦手だったという菅原さん。
特に苦労したのは漢字だったようで、読書が好きで読むことはできたものの、書くことができなかったと言います。
ですが、幼いころから算盤を習っていたこともあって、数学は得意だったそうです。
中学に入り、数学嫌いな生徒が増えていくと、菅原さんのクラスの中での数学の成績はぐんぐん上がり、クラスで1、2番になったとのこと。
中学では体操部に所属。
運動が苦手だった菅原さんは、部活で好成績を残すことはできなかったようですが、このように語られています。
「跳馬とか平均台とか、運動神経抜群な人でないとできない感じで。
結局、私は3年間何にもできなかったけど、柔軟性は鍛えられたので、よかったんじゃないですか」
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その後、高校では新聞部に入部。
三島由紀夫、太宰治、芥川龍之介など、高校の図書室にある文学全集を読破していったそうです。
高校卒業後は山形県立米沢女子短大に進学されました。
社会人になってから
短大卒業後は公務員試験に合格し、福島県にて司書として勤務された菅原さん。
5年働き、一人暮らしに疲れてきたころ、祖母が死去。
その後、身体の弱い母が倒れたのを機に退職して実家に戻り、眼鏡店の販売の仕事に就かれたそうです。
結婚から離婚まで
菅原さんがご結婚されたのは1998年。35歳のとき。
旦那さまとは知人に紹介されたことで知り合われたそうです。
旦那さまは、大手企業に勤める会社員で菅原さんよりも6歳年上。
お互いに本が好きという共通点があり、話が弾んだとのこと。
旦那さまの転勤に伴い、青森県に転居されたのち、2002年に第一子となる慶くんをご出産されました。
その後、再び転勤により盛岡市に戻られますが、旦那さまとは2008年に離婚されました。
大食い選手権に出るようになってから
まだご結婚されていた2006年、菅原さんは初めて大食いに挑戦されました。
郷土料理のわんこそばを食べる大食い大会にチャレンジし、15分で289杯を食べ、いきなりの準優勝を果たされました。
その後、2007年には優勝、
翌2008年には、制限時間は15分間の大会において、過去の優勝経験者として5分短い10分間のハンデをもろともせず、昨年の340杯を大きく上回る383杯という大会記録で2年連続の優勝を果たされました。
ちなみに、わんこそば1杯はかけそば1杯分の量に相当します。
2007年には、テレビ東京の番組にて、ギャル曽根さんと対決。
当時42歳の菅原さん。
残念ながら、ドクターストップがかかってしまい、無念のリタイアとなりましたが、
当時圧倒的な強さを誇っていたギャル曽根さんは「私のライバルになるのは菅原さんだと思っていた。」と仰っていました。
その後、”魔女”との異名でフードファイターとして名を馳せた菅原さん、
こちらは、2009年にジャイアント白田さんのくしかつ店「しろたや」で行われた大食いイベント「元祖!串カツ女王決定戦」でのお写真。
菅原さんは、1時間で238本を食べ、勝利されました。
テレビ東京の大食い番組にご出演されていた頃↓
こちらは、2020年のお写真↓
ショートカットのイメージの強い菅原さんですが、ロングヘアにされています。
パン職人に転身
一度、フードファイターを引退された菅原さんは、2016年にパン職人に転身されました。
パン屋の店名は「カンパーニュ」。
ラーメン屋やスーパーなどで働きながら、本を読んで独学でパン作りを学んだという菅原さん。
趣味として焼いていたパンでしたが、焼いたパンをお友達に配ると、「美味しい!」と好評で、
それを何年も続けているうちに「店を開いたら?」と繰り返し言われるようになり、自宅の一角にお店をオープンされたそうです。
再び、フードファイターとして
一度、テレビから姿を消された菅原さんでしたが、2016年1月1日放送のテレビ番組「大食い世界一決定戦!~Battle of Big Eaters!World Championships~」にて5年ぶりに復帰。
それ以降、度々大食いの番組にご出演されていました。
こちらは、2021年に「最強大食い女王決定戦」にご出演された時のお写真↓
本仮屋ユイカさんと。
こちらは、2021年「水曜日のダウンタウン」にご出演時のもの↓
もう、テレビで菅原さんの食べっぷりが見られなくなると思うと、やっぱり寂しいですね。
自分も息子も発達障害
2002年に生まれた長男の慶くん。
ほかの子どもと触れ合うようになってから、慶くんに対し、菅原さんは「何かがおかしい」と感じるようになったとのこと。
「ずっと笑顔のまま、よその子に近づいていって突き飛ばすんですよ。
何かされた仕返しというわけでもなく、一方的に押し倒すから、周りの親にも言い訳しようがない。
砂場に行けば、よその子に砂をかけるし。誰もいない公園を探して歩きました」
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また、こんなエピソードも。
スーパーに買い物に連れて行くと、すぐに脱走する。
探すのをあきらめて、しばらく待っていると、どこからか悲鳴が聞こえてくる。
走って行くと、人の輪の中心に慶君がいた。
売り場に並んだ豚ひき肉のパックに指を突っ込んで、何のためらいもなく口に入れたこともある。
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4歳のときに専門の病院を受診し、ADHD(注意欠陥多動性障害)と診断されたそうです。
菅原さんがご自宅にパン屋さんをオープンされたことの理由の一つには、慶くんに何かあってもすぐ様子を見ることができるということもあるのだそう。
友人の佐藤さんによると一卵性親子と呼びたくなるくらい、仲がいいそうだ。
「この間、3人で遊びに行ったときも、慶君が初代さんの腕をキュッとつかんで、ちょっと甘えてから好きな場所に行くんですよ。
もしかしたら慶君が大変なぶん、より深い絆があるのかなと思うし、2人を見ていると、ほのぼのした気持ちになりますね」
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一方で、取材に対し、菅原さんご自身のことについて、「漢字を書くのが苦手」と仰っています。
「テスト前に100回は練習したけど、次の日になると忘れてしまう(笑)。
例えば、冬という字は点々が2つあるけど、向きがわからなくなるんです。
さぼってはいないのに、テストの点が悪いんですよ」
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また、運動神経も悪く、ボールがうまく投げられないと言います。
調整する力が必要なため、発達障害の子どもはボールを投げるのが苦手なことが多いとのこと。
菅原さんが子供の時には、発達障害などという言葉自体が知られていなかった時代ゆえ、きちんとした診断が下りたわけではなさそうですが、
菅原さんご自身も発達障害を持たれていた可能性がありますね。
前述のとおり、菅原さんは離婚されています。
一人で障害を持つお子さんを育てるのは大変なご苦労があったことと思います。
モラハラで離婚の過去
菅原さんは、1998年35歳の時に、知人の紹介で知り合った6歳年上の会社員の男性とご結婚されました。
ですが、2008年に離婚されています。
原因は、旦那さまによるモラハラだったとのこと。
「お姑さんですら止めるくらい、夫は1度、暴言を吐きだすと止まらなくなるんですね。
突然、機嫌が悪くなるので、自分が何か怒らせるようなことを言ってしまったと思うわけですよ。
本当はそうではなく、私が何を言っても気に入らないんだと、今ならわかるんですが」
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弁護士に相談すると、「モラハラの場合、離婚するのに時間がかかるから、まずは既成事実を作った方がいい」とアドバイスされたことで、すぐに慶くんを連れて別居。
旦那さんに気付かれないよう、内緒でお金をおろしたり、実家の父親に家を借りるために保証人になってもらいに行ったりと、別居を始める前も大変だったそうです。
離婚の際も、旦那さんは離婚を認めようとせず、調停を3回行うも合意に至らなかったことで家庭裁判所までもつれ込んだとのこと。
別居時には、こんなエピソードも。
玄関の外で「宅急便でーす」というからドアを開けたら夫で、勝手に入ってきて。大声で叫んでいたら近所の方が警察を呼んでくれて、夫は警察に説得されて帰ったんですけどね。
週刊文春
「子育てが大変だから、実家に戻った方がいい」と友人からの言葉もあったそうですが、
慶くんにとっては、病院や教育環境の整った盛岡市に居た方がいいだろうとの判断で盛岡市に留まり、お一人で慶くんを育てられたそうです。
テレビにご出演されている菅原さんのお姿はいつも明るい印象ゆえ想像がつきづらいのですが、ご苦労されていたのですね。
その後、旦那さんは重い病気になり、他界。
遺産継承についてかなり揉め、すべて終わったのは2010年の3月だったそうです。
まとめ
「大食い魔女」としてご活躍だった菅原初代さんが、大腸がんのため、亡くなられました。
2006年に初めて大食いにチャレンジされた菅原さん。
途中、5年ほど大食い界から姿を消された時期がありましたが、“魔女”という異名を持ち、大食い界をけん引されてきました。
私生活では、発達障害を持つ息子さんの子育て、モラハラによる離婚・・・と大変なこともあったようですが、
これまで、明るいキャラクターと清々しい食べっぷりで、多くの視聴者を楽しませて下さいました。
心よりお冥福をお祈りします。
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